11月の初め、いわき市の知人宅からの帰り道、ここ塩屋埼灯台を初めて訪れた。
駐車場に車を止めドアを開けると、潮の香りと共にあの歌が聞こえてきた。
美空ひばりさんの名曲「みだれ髪」である。
「雲雀乃苑」にて
「みだれ髪」記念歌碑
「みだれ髪」は、1987年(昭和62年)12月、ひばりさんの大病後の復帰第一作として発表され、多くの人に親しまれてきた歌である。
この歌は塩屋埼を舞台にした楽曲で、灯台の登り口にある「雲雀乃苑(ひばりのその)」に「みだれ髪」記念歌碑がある。1988年(昭和63年)10月に建立となっている。
そこには、作詞家・星野哲郎氏直筆の歌詞と、作曲家・船村徹氏直筆の楽譜が刻まれている。
三番の歌詞が刻まれているのは、ひばりさんが「春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋」という部分を気に入っていたと言われているが、そのことに由来しているのだろうか。
ひばりさんの遺影碑の前で
そのすぐ傍には、ひばりさんの遺影碑が建てられている。これはひばりさんが亡くなった翌年の1990年(平成2年)6月に建立されている。
この遺影碑の前に立つとこの歌が流れるようになっていて、次々と誰かがこの前に立ち、歌が途切れることがないほどである。
年配の方などはしばらくここに立ちながら、当時のひばりさんを偲んでいるようであった。
今ではひばりファンだけでなく、全国各地から多くの観光客が訪れる、いわき市の観光スポットになっている。
塩屋埼灯台120年の歩み
「日本の灯台50選」に
「みだれ髪」の舞台となった塩屋埼灯台は、福島県いわき市平薄磯の断崖に立つ白亜の灯台で、その美しい姿から「日本の灯台50選」に選ばれている。また、全国に16基ある「のぼれる灯台」の内の1基でもある。
地元では「豊間(とよま)の灯台」や「ひばり灯台」とも呼ばれて親しまれているそうである。
初点灯から今年で120周年
灯台へは、登り口から階段で上っていく。段数は結構ありそうだ。
大きな横断幕が出迎えている。
「おめでとう120歳塩屋埼灯台!」
今年の12月で、初点灯から120周年になるという。
この120年間、この灯台では様々な出来事があったようである。
主な出来事を、福島海上保安部のサイト記事などを参考に紹介したい。
1899年(明治32年)12月15日 初代塩屋埼灯台初点灯
塩屋埼沖合3キロメートル程は暗礁が点在し、昔から航海の難所と言われ、座礁する船が多かったようである。
明治の初め頃から海上交通が盛んになり、国内外から航行の安全性が求められるようになったことから、明治32年に塩屋埼灯台が誕生したという。
煉瓦造りで高さが35.3メートル。煉瓦造りの灯台としては歴代1位の高さだという。灯油を燃やして23海里(42.6キロメートル)の遠方まで照らしたとのことである。
しかし残念なことに、1938年(昭和13年)11月の福島県北方沖地震で甚大な被害を受けたため、歴史に名を刻んだ煉瓦造りの灯台は、安全を考慮し解体を余儀なくされた。
1940年(昭和15年)3月 2代目塩屋埼灯台が完成
その後、1940年(昭和15年)3月に震災復旧工事が完了し、3等レンズに電球を使用した鉄筋コンクリート造の2代目塩屋埼灯台が完成した。高さは27.3メートル。
しかし、太平洋戦争の末期には、アメリカ軍の空襲などによりレンズ等が大破し、灯台としての機能が停止した。
このとき、21才の若い灯台職員1名が犠牲になったとのことである。
1947年(昭和22年)5月に復旧はしたが、さらに1950年(昭和25年)4月に、戦災復旧工事によって外壁やレンズ、灯器などが大規模に修復されたようである。
1971年(昭和46年)に灯台守の居住が廃止され、1993年(平成5年)からは無人化になっている。
東日本大震災により甚大な被害
2011年(平成23年)3月、東日本大震災が発生。この震災により甚大な被害を受けたため消灯し、灯台の機能はしばらく停止するが、約9か月後の11月に灯火が復旧した。
しかし、灯台が立つ断崖の法面や灯台への通路にも大きな被害があり、灯台参観は約3年間休止されている。
2014年(平成26年)2月に復旧工事が完了し、2月22日には復旧完成記念式典が行われ、一般参観が再開されて現在に至っている。
こうした塩屋埼灯台の苦難の歴史を知るにつけ、今あるその雄姿を仰ぎ見る思いである。
詳細は<福島海上保安部>ホームページを参照
映画「喜びも悲しみも幾歳月」記念碑
もう一つの記念碑(歌碑)
大きな横断幕の下を通り過ぎ、階段を数段上ると右側に、もう一つの記念碑(歌碑)が建っている。
ここに刻まれているのは、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の主題歌である。
そして、この記念碑の基部には、この歌の由来が刻まれたプレートがはめ込まれている。
この記念碑は海を守る灯台守の妻として
幾多の苦難の道をのりこえた田中きよさん
(小名浜在住)の手記が昭和31年の婦人雑誌
に載った「海を守る夫と共に20年」に
心うたれた木下恵介監督により
「喜びも悲しみも幾歳月」と題して
映画化されたものを記念して建立されたものです
田中きよさんの手記とは
ここに記されている田中きよさんの手記とは、婦人雑誌「婦人倶楽部」1956年(昭和31年)8月号に掲載された「海を守る夫とともに二十年」である。
灯台守のご主人・田中績(いさお)さんと結婚した1935年(昭和10年)頃から、1955年(昭和30年)頃にかけての20年に及ぶ各地での灯台守の体験を綴ったもので、当時、ご主人がこの塩屋埼灯台の灯台長をしていたため、この地での寄稿となった。
灯台守としての尊い使命に生きた田中さん夫妻は、どのような人生を歩んできたのだろうか。
朝日新聞の電子版に、田中さん夫妻の娘さんへの取材などを通して、ご夫妻の人生を優しいまなざしで綴っている記事がある。2008年(平成20年)2月の少し古い記事であるが、ぜひ読んでいただきたいと思う。
ここでは、この記事などを参考にして、田中さん夫妻の歩みを簡単に紹介したい。
田中さん夫妻の歩み
岩手県宮古市の魹ヶ埼(とどがさき)灯台。
ここは績さんの灯台守としての初任地で、自ら希望して選んだという。当時「最も不便な場所」と言われた灯台で、本州で最も東にある灯台でもある。
近くの岩にはめ込まれた銅板にある「本州最東端の碑」の文字は、妻きよさんの筆によるものである。
二人の生活はこの地から始まっている。
その後、北海道稚内市の宗谷岬灯台、樺太の海馬島(モネロン島)、長崎県五島列島の女島(めしま)灯台、宮崎県串間市の都井岬(といみさき)灯台、福島県いわき市の塩屋埼灯台と続き、再び岩手県の魹ヶ埼灯台に赴任している。
最後の勤務地である千葉県勝浦市の勝浦灯台で定年を迎え、退官後の住まいに塩屋埼灯台があるいわき市を選んでいる。これまでの勤務地の中で、ここが一番暮らしやすかったからだという。
灯台守の仕事は、各地の灯台を転々とするのが常で、績さんの37年間の灯台守の任地はどこも人里離れた「陸の孤島」であり、生活すること自体が仕事だったという。
この人となら
そんな中で二人は、7人の息子さんと3人の娘さんを育て上げている。
長女が生まれたのは魹ケ埼で、績さんが産婆さんを呼びに行ったが間に合わず、同僚の灯台守の妻が、雑誌の付録を見ながら赤ん坊を取り上げたという。
また、次男が生まれたときは、績さんが取り上げている。このとき、きよさんは「すべてが一体となったような夫への信頼」を感じたという。
長崎県の女島は、まさしく絶海の孤島である。
きよさんは、米のとぎ汁で顔を洗い、残りでぞうきんをかけ、おしめを洗った。
恵まれない生活を支えたのは「この人となら、どんな苦労をしてもよい」という思いだったという。
「燈台(とうだい)の夫婦には倦怠(けんたい)期がない、とよく言われます。寂しいところで不自由の多い生活をするわけですから、頼りにするのはお互い同士です。夫と妻がいたわり合い、力をあわせていく以外に、このきびしさを超えていく方法はないのです」
「苦しいときもありますが、星のきれいな夏の夜など、限りなくロマンチックな思いで語りあったりして、苦しみの埋め合わせをしています」
亡くなるまでの約30年間、いわき市での生活は、買い物も旅行も二人で出かけ、社交ダンスも二人で踊ったりしていたそうである。晩年を両親と過ごした娘さんは、二人の仲の良さを思い出すという。
きよさんは1999年(平成11年)に87歳で、績さんは2002年(平成14年)に92歳で、3人の娘さんにみとられて亡くなったとのことである。
記念碑には、建立された平成元年11月吉日の日付と共に、田中績さん田中きよさんご夫妻の名前が刻まれている。
塩屋埼灯台へ
灯台への階段
灯台へは、狭い階段を右に折れ、左に折れながら上っていく。
あとどのくらいあるのだろう。
後ろを振り返ると、眼下に薄磯海水浴場の砂浜が遠くまで続いているのが見える。
途中で、降りてくる人に出会うと「あとどのくらいですか」と聞く。「もうちょっとで頂上ですよ」との返事に、少し元気が出てきた。
かつての灯台守は、水や食料をかかえながら、この階段を上っていたのだろう。
「もうちょっとで頂上だ。頑張れ!」手すりにつかまりながら、自分を励ます。
頂上に着くと視界がぱっと開け、白い灯台の姿が目に入ってきた。
看板が出ているので、ここが写真を撮るスポットになっているようだ。
灯台の手前に、灯台資料展示室がある。
受付で参観料(寄付金)を払うと、灯台にのぼる事ができ、灯台資料展示室も見学することができる。
灯台にて
灯台の螺旋階段は103段である。ぐるぐるとひたすら回る。
デッキからの眺望は、一段と素晴らしい。
灯火部分やレンズの回転装置など、主要な機器類がここにある。
灯台の光は、はるか40キロメートル先まで照らすという。どの辺かは見当も付かない。
灯台資料展示室にて
灯台資料展示室には、灯台誕生の歴史や灯火のしくみなど、灯台に関する様々な資料が展示されている。
海の安全を守るために先人が辿ってきた歴史を、少しは学ぶことが出来たような気がする。
少女の絵
また、東日本大震災の時の被災状況の写真や、津波で犠牲になったある少女が描いた絵とその由来などが展示されていた。
その少女の話が、以下のサイトに詳しく紹介されている。
ぜひ、読んでみてほしいと思う。
共同通信記者・高橋宏一郎氏が、2014年(平成26年)2月に掲載した記事で、一言一言が家族に寄り添うように綴られていて心にしみる記事である。
Yahoo Japan ニュース
<津波犠牲の10歳少女と灯台をめぐる物語-福島・いわき> ※現在は削除されています(2022.8.4)
灯台守の苦闘に思いをはせて
塩屋埼灯台への訪問を通し、灯台の歴史を初め、灯台守の尊い労苦と使命感により海の安全が守られてきたことを、少しではあるが知ることが出来たように思う。
120周年に当たり、灯台守の苦闘に思いをはせながら、海の安全のために灯台の灯がいつまでも灯りゆく事を祈りたい。
<参考に>
当記事の作成に当たり、記事中で紹介した以外に、参照させていただいた主なサイトは以下の通りである。
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